№14 黒糖焼酎物語 Ⅶ-②
奄美の島々にはたくさんの黒糖焼酎製造の蔵元があります。蔵元が多いということは、それだけ歴史が古いということを表しています。しかし、黒糖焼酎がいつ始まったか、特定できるような史料は見つかっていません。
1850年代の文献『南島雑話』に次のような記述があります。『南島雑話』は、奄美大島に流罪になっていた薩摩藩士名越(なごや)左源(さげん)太(た)が5年間の体験や見聞を詳細な文章と丹精なスケッチで綴った貴重な文献資料です。
留(とめ)汁(じる)焼酎とて砂糖黍(きび)を清(すま)したる汁を焼酎に入れることあり。至て結構なり。
この記述が、現在の黒糖焼酎醸造と同じものなのか、確認はできませんが、黍(きび)汁(じる)を入れていたということは黒糖焼酎の二次仕込みに砂糖を溶かして入れる現在の醸造法と基本的には同じだと考えられます。
黒糖焼酎は奄美でしか製造が許されていません。それは薩摩藩の支配していた時代、奄美では砂糖黍が栽培され、黒砂糖が作られていた歴史があるからです。砂糖黍の栽培は薩摩藩の政策として導入され、年貢として黒砂糖を納めなければなりませんでした。
がんしゅてぃしゃんてん たがためなゆり やまといしゅぎりゃが ためどぅなゆる
(こんなに難儀していても誰のためになるのか。大和殿様のためにしかならないのだ。)
砂糖製造作業は1年がかりの農作業です。黍を植えて管理し、黍を刈り取って搾り、その汁を煮詰めて黒砂糖を作る、これらの作業は大変気を使う難儀な仕事でした。
しわじゃしわじゃ うぎきりしわじゃ うぎぬたかぎり ふだはきゅり
(心配だ心配だ。黍刈りは心配だ。黍を高刈りすると、罰札掛けられるぞ。)
薩摩藩は生産を上げるために厳しい監督を命じました。黍の刈り取りは一番きつい作業です。腰をかがめて黍を刈る仕事が、来る日も来る日も続きます。少し高めに刈ってしまうだけで罰せられました。首に厚い板が掛けられ、村中を引き回されました。(つづく)
(文責:えらぶ郷土研究会先田光演)
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黒糖焼酎の原料黒砂糖 |
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